華々しい現役時代とは違い、「常勝」の十字架を背負った監督時代の長嶋茂雄は、苦難の連続だった。引退後すぐ監督になった1975年は、球団史上初の最下位。定石にとらわれない采配は「カン(勘)ピューター」とやゆされ、かつてのスーパースターも辛酸をなめた。
翌76年に日本ハムから「安打製造機」の異名を取る張本勲を獲得し、立て直しを図る。刺激を受けた王貞治が本塁打王に返り咲き、リーグ優勝の原動力となった。チームを活性化させるトレードに加え、ファンを驚かせた高田繁の外野から三塁へのコンバートも的中。新人獲得では体調に不安のある篠塚利夫、松本匡史をあえて指名して育てたように、選手の資質を見抜く眼力も示した。
しかし、80年オフに電撃的な解任劇が待っていた。親会社の読売新聞の不買運動にまで広がり、衰えぬ人気をうかがわせたが、当人にとってはこれ以上ない屈辱だった。
長い「文化人」生活を経て、Jリーグ創立によってプロ野球の危機が叫ばれた93年、渡辺恒雄読売新聞社長(当時)から「人気回復の起爆剤に」と請われ、監督に復帰。94年にフリーエージェントの落合博満を獲得して若い松井秀喜の成長を促すなど、大胆な手綱さばきも見せた。この年、中日との最終戦で勝った方が優勝という「国民的行事」を制してリーグ優勝。
日本シリーズでもV9時代の僚友、森祗晶が率いる西武に勝って念願の日本一に。2000年には王監督のダイエー(現ソフトバンク)との「ONミレニアム対決」を制した。それでも、次々と他球団の主砲を集める補強や独特の采配には、批判が付きまとった。
12年間の浪人中、大洋(現DeNA)や西武、ヤクルトなどから監督就任要請があった。だが、王貞治がダイエーに新天地を求めたのに対し、巨人一筋を貫き通した。「『長嶋茂雄』というブランドを演じるのには、エネルギーがいるんですよねえ」と語っていたミスターならではの美学だった。(敬称略)。
【時事通信社】
〔写真説明〕監督としての初シーズン、開幕シリーズの大洋戦で初戦から連敗。ベンチで渋い表情を見せる巨人の長嶋監督=1975年4月、後楽園
2025年06月11日 13時35分