同世代が見た「立大の長嶋」=慶大OBの永野元玄さん



3日に亡くなった長嶋茂雄さんは、東京六大学野球の立大で活躍し、花形選手へと飛躍していった。同じ時期、慶大の捕手として共にリーグ戦を戦った永野元玄さん(89)が電話取材に応じ、神宮球場を沸かせた大スターの思い出を語った。

生年月日が6日違いの二人は、大学1年生の春から神宮でプレー。永野さんがマスク越しに見た長嶋さんの印象は「がむしゃらに取り組んでいた中で、すごい素質を感じた」。バッテリーを組んでいたのは、後に巨人で長嶋さんとチームメートになる藤田元司さん。「当初は高めにウエストした球にも引っ掛かるなどしていた。でも2年生になると粗さがなくなり、成長が著しかった」

長嶋さんは2年生の春に本格的なレギュラーとなり、秋からは不動の4番三塁。リーグ戦1号本塁打も放った。3年生の春に首位打者。当時の神宮は両翼が広かった中、本塁打も着々と増やし、4年生の春までに当時のリーグ記録に並ぶ7号とした。だが、待望の8号がなかなか出なかった。

迎えた最終シーズンの秋。最後のカードとなった慶大との2回戦で、ついに新記録が生まれた。永野さんは「あの日、私は一塁を守っていた。彼はぴょんぴょんと跳びはねるようにしながら、悠々とダイヤモンドを一周した」と思い起こす。

永野さんに映っている長嶋像とは。「明るく楽しい人で、皆に元気を与える。たまにピント外れがあっても、それも彼らしい。(脳梗塞による)リハビリを長くやっておられたように、ものすごいファイトの持ち主。プレー自体もそうだった」

永野さんは後年、高校野球の審判員に。1979年夏の甲子園ではドラマが重なる名勝負となった星稜(石川)―箕島(和歌山)の球審を務めるなど、名審判として鳴らした。旧日本陸軍の青年将校によるクーデター「二・二六事件」が発生した36年2月26日生まれ。それに関連する長嶋さんのエピソードもある。「彼は『そうそう、あの日は雪が降っていたんだよね』と言う。あたかも自分がその場にいたかのように。違和感もなく、なぜか通じてしまう。そういう特性もあった」。

【時事通信社】 〔写真説明〕立大時代の長嶋茂雄選手(右端)ら=1957年(立教学院史資料センター提供) 〔写真説明〕東京六大学野球の慶大時代、長嶋茂雄さんがいた立大と対戦した永野元玄さん=2018年7月1日、京都市 〔写真説明〕立大時代の長嶋茂雄選手(中央)=1957年(立教学院史資料センター提供)

2025年06月11日 13時34分


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