男女雇用機会均等法が制定されてから、今年で40年。男女格差を数値化した国別の「ジェンダーギャップ指数」(世界経済フォーラムが毎年公表)で、日本は依然世界下位層に沈む。どうしたら日本の女性が社会にもっと進出できるようになるのか。ジェンダー研究の専門家2人、国立女性教育会館の萩原なつ子理事長(68)と大沢真理東京大名誉教授(71)に話を聞くと、「誰もが働きやすい社会を男女が共に築くこと」と答えが返ってきた。
萩原理事長は、均等法(1985年)より前の79年に大学を卒業。企業の就職案内はほとんどなく、わずかにあっても求人票に書かれた条件は「容姿端麗」など。広告代理店に就職できたが、賃金差別にも仕事内容にも納得できず、大学に戻って学び直した。
専攻は社会学だったが「女性には教員のポストは取れない」と言われ、家政学へ。大学院の授業や学会に出られたのは、夕方まで子を預かる幼稚園や育児仲間の支えがあったからだ。
さまざまな組織で非常勤で働き、フルタイムで講師の職に就けたのは38歳の時。「キャリアは細切れ。それが当時の女性の生き方を表している。男性は働くときに『ドアが自動で開く』けれど、私の世代はドアノブをがちゃがちゃさせて無理やり入って進む感じ」。
博士号取得後、当時の浅野史郎宮城県知事から声が掛かり、県庁へ赴任した。ただ一人の女性次長として、文化を変えようと挑戦した。退任時は「女性管理職のモデルでなく、自分らしく働けばいいと教わった」と女性職員から言葉を贈られた。
「少数だと、個人でなく性別で見られがち。女性はようやく最近、さまざまな仕事に『参入』できるようになった。これからはどう『参画』するかが課題」と話す。「視点を未来に移し、男女が一緒になって社会を変えていこう」とほほ笑む。
社会政策をジェンダー視点から研究する大沢名誉教授は、76年の大学卒業だ。在籍していた東大経済学部には当時、学生が350人前後いて、うち女性は5~6人。大学院に進んだ女性は大沢さんを含めて3人だったが、他の人は学者の道を諦めて帰省。研究者のポストに就くのは容易ではなかったと振り返る。
均等法について、女性であることを理由に門前払いしてはいけないという規範を打ち立てたと評価。「97年の改正で、セクハラ防止を雇用主の責務としたことも大きかった」と、意義を強調する。
99年には、仕事、家事、地域活動を男女が共に担い、活躍できる社会にしようと、男女共同参画社会基本法が施行され、起草委員の一人としてこれに関わった。女性の進出について「法や制度は整いつつあるが、結果が伴っていない。意識改革も必要」とばっさり。正規職と非正規職の区分をなくした企業もあるなどと話し、日本の職場に「もっと変革を」と、さらなる努力を企業や組織がすべきだと迫った。
【編集後記】つらい経験をユーモア交えて語り、爆笑続きのインタビューだった。信じられないような差別をくぐり抜けてきたレジェンド2人の言葉はどれも重く、だがウイットと愛情に満ちていた。「若い人はこれまでの歴史を学んで」と、憲法にも話が及んだ。性別によって差別されないとした14条、結婚は両性の合意に基づくとした24条など、宝だと改めて感じた。さて、報道の職場は女性の進出やセクハラ防止の会社の責務、男女共同参画社会の理念を自分のこととして取り入れてきただろうか。取材には60歳の男性記者も同席したが、2人が生きてきた時代が彼にはどう見えていただろう。次に聞きたい。(時事通信編集局記者・湊屋暁子)。
【時事通信社】
〔写真説明〕日本社会の変化の遅さについて話す、国立女性教育会館の萩原なつ子理事長(左)と東京大の大沢真理名誉教授=2月20日、東京都千代田区
〔写真説明〕
〔写真説明〕インタビューに答える大沢真理東京大名誉教授=2月20日、東京都千代田区
〔写真説明〕インタビューに答える萩原なつ子国立女性教育会館理事長=2月20日、東京都千代田区
2025年03月09日 19時03分