プロ野球巨人の選手、監督として偉大な足跡を残し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが3日午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。89歳だった。葬儀は近親者のみで執り行う。喪主は次女の三奈(みな)さん。後日、お別れの会を開く。
2004年3月に脳梗塞を患って入院したが、リハビリを重ねて退院。少年野球の指導などを通じて球界を見守った。胆石治療の入退院を経て、19年4月には東京ドームで試合観戦するまでに回復。以後も「巨人終身名誉監督」として球場を訪れ、今年3月には巨人とのプレシーズンゲームに臨んだ米大リーグ、ドジャースの大谷翔平選手が長嶋さんとのツーショット写真を公開した。
千葉県臼井町(現佐倉市)出身。県立佐倉一高(現佐倉高)から立教大へ入学し、通算8本塁打の東京六大学野球記録(当時)をつくった。1958年に巨人入り。1年目に本塁打王、打点王、新人王に輝いた。
59年、昭和天皇が初めてプロ野球を観戦した「天覧試合」でサヨナラ本塁打を放つなど、大舞台で無類の勝負強さを発揮。「ミスタージャイアンツ」「燃える男」の異名を取り、天性の明るさと華やかなプレーで高度経済成長期の国民に希望を与えた。王貞治選手(現ソフトバンク球団会長)との3、4番コンビは「ON砲」と呼ばれ、巨人を65年から9年連続日本一に導いた。
74年に「わが巨人軍は永久に不滅です」の名言を残して引退するまで、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回のタイトルを獲得し、最優秀選手に5回選ばれた。背番号3は巨人の永久欠番。
引退翌年に監督となり、1年目の75年は球団史上初の最下位に終わった。76、77年にセ・リーグを連覇したが、続く3年間は優勝を逃し、解任された。93年に監督復帰。94年に初の日本一を達成し、00年には王監督率いるダイエー(現ソフトバンク)とのON対決を制し、2度目の日本一となった。
01年勇退。監督通算15年でリーグ優勝5回、日本一2回だった。「メークドラマ」「メークミラクル」など独特の表現で選手を鼓舞し、奇跡的な逆転優勝も果たした。
02年12月、アテネ五輪を目指す日本代表の監督に就任。アジア予選を突破したが、病に倒れ、五輪では指揮を執れなかった。13年には、監督時代に巨人の4番打者に育てた松井秀喜さんと共に国民栄誉賞を受けた。
21年夏の東京五輪開会式で王さん、松井さんと聖火ランナーを務め、同年秋には元プロ野球選手として初の文化勲章を受けた。
元ヤクルト、巨人内野手でタレントの一茂さんは長男。
【時事通信社】
〔写真説明〕プロ野球巨人終身名誉監督の長嶋茂雄さん
〔写真説明〕退任が決まり、東京ドームでの最終戦終了後のセレモニーで手を振る巨人の長嶋茂雄監督(肩書は当時)=2001年9月、東京ドーム
〔写真説明〕スポーツ報道写真展に来場し、現役時代を振り返る長嶋茂雄さん=2018年3月、東京都港区
2025年06月04日 08時14分