プロ野球中日の投手として1960年代に活躍した権藤博さん(86)。日本の復興、球界の再建と発展の歩みについて、何を感じてきたか。戦後80年の節目に思いを聞いた。
◇ざらざらの飯
佐賀県出身の権藤さんは、6歳で終戦を迎えた。戦時中は近くの寺で学び、空襲警報が鳴れば山の中を駆けて帰宅。夜中に背中が痛くて起きてみると、防空壕(ごう)に運ばれていたこともあった。
当時の記憶は「怖い」より「腹が減った」。主食は芋と芋づる。「白飯なんか食えない。ヒエやうどん粉を混ぜるから、飯はざらざら」だった。遊びはもちろん野球。「稲刈り後の田んぼが球場。カーンという音を出すため、(ボールは)石に毛糸を巻いた」と懐かしむ。
◇花咲けて感謝
連投に次ぐ連投に臨んだ様子を表現した「権藤、権藤、雨、権藤」のフレーズは、野球ファンにおなじみ。中日1年目の61年は69試合に登板し、今も新人最多記録として残る35勝をマークした。先発後は2日間の救援待機を挟み、出番がなければまた先発。32完投、12完封という驚異の数字が並んだ。
兵役に就いた経験を持つ濃人渉監督に「肩が痛くても命まで取られやせん」と鼓舞された。連投を物ともしなかったのは、とにかく「腹いっぱい食べたい」という原体験があったから。長嶋茂雄さんや王貞治さんらとの対戦にも心が躍った。
ただ、酷使は選手生活の短命を招いた。右肩に引っ掛かる感じがあり、右肘も故障。2桁勝利は3年で途切れ、通算82勝で現役を終えた。かねて口にする「投げてつぶれるのは本望」との言葉には続きがある。「いっときでもパッと花咲けて感謝している。ちまちまやって100勝しても、大したことはない」
◇今も心ときめく
年齢を重ねても、柔軟な思考や理知的な語り口は変わらない。「私の野球は何十年も前。今の方が全てでレベルが上」との考えで、常に最新理論を学ぶ。
指導者としての結晶は、先発と救援の役割を明確化した「投手分業制」の推進にある。98年に横浜(現DeNA)監督として投手起用の手腕を発揮し、日本一に導いた。肩や肘を壊した自身の経験以前に、「もはや投手1人で投げ切るのは勝率を落とす。時代がそうさせた」と言う。
新人時代に三振を奪えなかった長嶋さんが6月に他界。「戦後にあれほど輝いた人はいない。不世出だ」と惜しむ。球界は刻々と移りゆく。米大リーグを席巻する大谷翔平には「別格過ぎる。全てを野球にささげている」と感嘆する。
次代を担う日本の若者に向け、「私は食うや食わずで育ち、食うために野球を頑張った。今の世代も、どう生きるかという目標を持ってほしい」と願う。80代でも、かくしゃくとした姿は、心の張りが源。「私もまだ道の途上。はっとする瞬間や出会いがないかと、今も心がときめいている」。
【時事通信社】
〔写真説明〕インタビューに答える元中日投手の権藤博さん=6月17日、名古屋市東区
〔写真説明〕バンテリンドームナゴヤのグラウンドを背に撮影に応じる元中日投手の権藤博さん=6月17日、名古屋市東区
〔写真説明〕38年ぶりの日本一を決めナインに胴上げされる横浜の権藤博監督=1998年10月、横浜スタジアム
〔写真説明〕野球殿堂入りし、表彰された元横浜(現DeNA)監督の権藤博さん=2019年7月、東京ドーム
2025年07月30日 07時06分