トヨタ世界一の礎築く=財界でも剛腕発揮―奥田碩さん死去



亡くなった奥田碩さんは、トヨタ自動車社長時代、「攻めの経営」を貫いて「石橋をたたいても渡らない」とやゆされた保守的な社風を刷新した。年間1000万台規模を生産する世界一の自動車メーカーとなる礎を築いた。社長退任後は、財界でも剛腕を発揮。「改革派」として圧倒的な存在感を示した。

若いころからずけずけモノを言うタイプだった奥田さんは経理部時代に上司に嫌われ、フィリピンに約6年半も「左遷」。ところが、当時のマルコス政権に食い込んで成果を挙げ、創業家3代目の故豊田章一郎さんの目に留まった。これが転機となり、章一郎さんの「大番頭」として出世街道を歩んだ。

社長時代の即断即決ぶりは、「エレベーターに乗っている何十秒かの間に部下が示したプランを決裁した」という逸話が残るほど。それまでの遅れを取り戻すかのような海外展開の速さで、同業他社を驚かせた。環境保護の流れにいち早く乗り、世界初の量産型ハイブリッド車「プリウス」の発売にも踏み切った。

社長退任後は財界活動に積極的に取り組んだ。経団連会長を務めたのは2002年からの4年間。経済財政諮問会議の民間議員として政策決定の中枢に自ら乗り込み、「官から民へ」を掲げる小泉政権を全面支援した。「歴代経団連会長で最も首相と近い」と評される蜜月関係を築いた。

靖国神社参拝問題で日中関係が冷え切ったさなか、外交ルートを通さずに中国の胡錦濤国家主席(当時)との極秘会談を実現。財界人の枠を超えた行動の背景には、「政治が悪いなら経済の方から政治を熱くすればいい」との冷静な判断があった。

率直過ぎる奥田語録は、時に大きな波紋を広げた。「談合は全国津々浦々にある」「春闘は死語」など問題発言も数多い。ざっくばらんで憎めない人柄から、それが許されてしまうという点でもまれな財界人だった。

【時事通信社】 〔写真説明〕小泉純一郎首相と握手する奥田碩トヨタ自動車会長(左)(肩書は当時)=2002年10月、首相官邸 〔写真説明〕トヨタ自動車の社長交代の記者会見に臨む奥田碩氏(右)。左は豊田章一郎会長(肩書は当時)=1995年8月、東京都港区

2026年08月12日 20時33分


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