
司馬遼太郎と開高健の直接の付き合いは、開高の晩年にモンゴル、その十数年前にベトナムについて語り合った程度だったという。しかし、司馬は開高が死んだ翌日、その妻牧羊子宛てに「いのちのさいごのひびをこのようなめいさくをかくことについやしたひとはほかにいたかとおもい」などとする弔電を送っていた。
それがきっかけとなったのか、2人とも大阪出身だったせいか、1990年1月の葬儀で牧はサントリー会長などを務めた佐治敬三氏ら3人と共に、司馬にも弔辞を読むよう頼んだ。今回見つかった手紙の中で、司馬は開高を「壮烈な文学者」と評価した上で、「(小生は)やや年長=7歳上=の同郷人ということだけであります」「読者としての弔辞を申しのべます」などと謙遜。改めて弔電も同封していた。
〔写真説明〕司馬遼太郎=1991年10月
2026年04月25日 09時40分