
「憎らしい」と評された強さを誇り、引退後は日本相撲協会の理事長を長く務めた大相撲元横綱北の湖の小畑敏満さんが九州場所中だった2015年11月に62歳で亡くなって10年がたった。命日の同月20日、東京・両国中の同学年で、山科親方として相撲協会本部で理事長を支えた元小結大錦の尾堀盛夫さん(72)がインタビューに応じ、思い出などを語った。
◇豪快さと繊細さと
入門規定に下限がない時代。中学在学中に入門した北の湖さんと同様に山科さんも所属部屋から通学していた。初土俵は北の湖さんの方が1年余り早く、学生服の襟を広げ、ちょんまげ姿で肩で風を切って歩くのを初めて見て「何だあれ」。北の湖さんは既に三段目。けんかを挑んできた他校の番長は返り討ちにした。
18歳で新入幕。21歳2カ月での横綱昇進は今も最年少記録として残る。巨漢でありながら俊敏さも。現役時代、史上初の新入幕三賞独占を遂げた山科さんは、北の湖さんの強さについて「相手の良さをどこかで消せばいいと。将棋で言うと、局面を変える一手を待つ余裕があった」と振り返る。馬力が際立つ一方、勝ち急がない繊細さがあった。
頭脳明晰(めいせき)でもあり、「何年何月、何日目の取組だったか全部答えられた」と山科さんは舌を巻く。抜群の記憶力だったという田中角栄元首相をほうふつとさせる逸話だが、「角栄さんは、忘れていたらごまかすこともあった。(北の湖さんは)なかった」と笑いながら言った。
取組後、敗者に手を差し伸べるようなことはしなかった。生前、「それは優しさじゃない。俺はそういうことをやられたら嫌なんだ。負けた相手の目も見ない」と話していたという。角界の屋台骨を担ってきたという誇りが垣間見える。いつしか、他の追随を許さないヒール(悪役)になった。
罵声を浴びせられていた花道で拍手を受けるようになった頃、引退を決意した。優勝24回。「俺の役目は終わった」。人気よりも強さを追い求めた末の引き際だった。「かっこいいな」と山科さん。短い言葉に、大横綱の生きざまが凝縮されていた。
【時事通信社】
〔写真説明〕初優勝を遂げ、賜杯を手に記念撮影する北の湖=1974年1月、東京・蔵前国技館
〔写真説明〕土俵入りをする横綱北の湖=1981年1月、東京・蔵前国技館
〔写真説明〕インタビューに応じる元山科親方の尾堀盛夫さん=11月20日、東京都墨田区
〔写真説明〕そんきょする大錦=1982年5月、東京・蔵前国技館
2025年12月09日 07時07分