昔ながらの親分、人望厚く=北の湖さん、人信じた孤高―嫌われた横綱(下)



日本相撲協会理事長としての北の湖さんは「昔ながらの親分肌だった」と山科さんは言う。他の部屋から転属してきた弟子の大麻問題で2008年に一度は引責辞任したものの、八百長問題などの不祥事からの相撲人気回復を目標に掲げて12年に再登板。周囲の意見には常に謙虚に耳を傾け、相撲協会の公益財団法人への移行に尽力した。

「優し過ぎるところ」はあった。15年初場所後、白鵬が勝負判定について審判部を批判した際は師匠を通じて注意したが、厳しく追及することはない。山科さんが厳重な指導を進言すると、「そう言うな。あいつは分かっているんだから」。信じることが人をつなぐ絆だと分かっていた。

「今度、行こう」と約束すれば、必ず一席設けてくれた。なじみの飲食店で、自身とは一門が違う力士を見掛けた時、彼は婚約者を連れてきていた。祝宴として、力士とは関係のない客も含めて全員の食事代を支払った。その人望の厚さを示すエピソードには、事欠かない人だった。

協会が公益法人に移行した14年1月末の前後は関係各所との対応に追われた。山科さんは、北の湖さんと意見が食い違う部分を指摘しようとしたところ、「お前の言いたいことは分かっているから言うな」。協会全体の利益を最優先に考え、理事長職を遂行した。

15年九州場所中に危篤状態となり、在任中の62歳で死去。山科さんは「終わったんだなと。俺を(相撲協会の本部に)呼んでくれて、この立場にしてくれてありがとう」。遺体と対面した際はまだ生きているようだったという。真っ先に感謝の念が去来した。

生前、北の湖さんから何か相談されるようなことはなかった。「普段は無愛想で。俺たちに話すことなんて小さなことだけ。もっと上の次元で仕事をしていた」。現役時代と変わらず、孤高の存在として大相撲の発展に向き合った生涯。ここ数年の角界は盛況が著しいが、その礎を築いた。

【時事通信社】 〔写真説明〕初日恒例のあいさつをする日本相撲協会の北の湖理事長(中央)ら=2014年5月、東京・両国国技館 〔写真説明〕日本相撲協会の公益財団法人への移行を発表する北の湖理事長(中央)ら=2014年1月、東京・両国国技館 〔写真説明〕日本相撲協会の理事会に臨む山科親方(元小結大錦)=2018年1月、東京・両国国技館 〔写真説明〕日本相撲協会の理事候補選挙の投票に向かう北の湖理事長=2014年1月、東京・両国国技館

2025年12月10日 07時11分


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