特攻で散った伝説投手=元名古屋の石丸進一さん―出撃前、最後のキャッチボール・戦後80年



戦局の悪化が著しかった太平洋戦争末期。ノーヒットノーランの快挙も果たした伝説的投手が、神風特攻隊の一員として命を落とした。プロ野球が一般的に「職業野球」と呼ばれていた80年前。名古屋(現中日ドラゴンズ)で活躍した石丸進一さんは、22歳の若さで飛び立った。

進一さんの兄藤吉さんを父に持ち、遺品と語り部役を受け継ぐ剛さん(73)は言う。「突入の信号もなく、撃ち落とされたか敵艦に突っ込んだかも分からない。むごい話だ」

1945年。連合国艦隊に自爆攻撃を仕掛ける「菊水作戦」が決行された。進一さんは5月11日に500キロの爆弾を積んだ機体で、鹿児島県の鹿屋基地から沖縄方面へ出撃。終戦まであと約3カ月の出来事だった。

◇制球抜群で快挙も

進一さんは佐賀市に生まれ、幼少から野球に没頭した。名古屋に所属していた藤吉さんに血判を押した志願書を送り、佐賀商業学校(現佐賀商高)から41年に入団。当初は内野手で、2年目から投手としてプレーした。

性格は実に一本気。ボール球を捕った捕手が、ストライクゾーンに向けミットを動かす行為に怒ったほどだ。名古屋では43年に20勝12敗、防御率1.15の好成績を残し、無安打無得点試合も達成。本塁打王5度の故青田昇さんは「背丈は大きくないが、低めへの制球が抜群。あれは打てない」と評したという。

輝かしい未来があった若者に、戦争の影は忍び寄った。学徒出陣による召集で、日大にも在籍していた進一さんも徴兵対象に。検査では高い評価を得た。配属先は海軍飛行科。兄から「飛行機乗りにはなるな」と忠告された矢先のことだった。

◇最後の投球

鹿屋基地に移った45年。特攻という常軌を逸した任務の遂行が目前に迫っていた。藤吉さんの孫の泰輔さん(47)によると、「もう日本に勝ち目はない」と口にした兄に、進一さんは「そんなことは分かっている。でも僕が行かないと日本はどうなる」と訴えた。

最期を前にした日々を笑顔で穏やかに過ごしたという証言がある一方で、特攻隊仲間には正直に「死にたくない」とおえつを漏らした。泰輔さんは「悔しい、悲しい、怒りなどの全てを超越した感情。想像できない」と目を伏せる。

剛さんは進一さんの同期に会った際の言葉が忘れられない。「申し訳ない。必ず一緒に行くと約束したのに、順番が後ろになって生き残ってしまった」。どれだけの年月が過ぎようと、生きることさえ後ろめたく思ってしまうほど心の傷は深いと感じた。「戦争は自分と縁のないもの、遠いものと思っていても、一気に近づいてくる。その怖さを知ってほしい」と願う。

出撃が決まった後。進一さんは仲間と最後のキャッチボールをしたという。ずっと続けたかった野球を慈しみ、生をかみしめるように。

【時事通信社】 〔写真説明〕神風特攻隊で命を落とした石丸進一さん。投手として名古屋(現中日ドラゴンズ)で活躍した。(石丸剛さん提供) 〔写真説明〕神風特攻隊で命を落とした石丸進一さん。投手として名古屋(現中日ドラゴンズ)で活躍した。(石丸剛さん提供) 〔写真説明〕神風特攻隊で命を落とした石丸進一さんについて話す石丸剛さん=7月3日、東京都町田市 〔写真説明〕神風特攻隊で命を落とした石丸進一さんについて語る石丸泰輔さん=7月1日、東京都渋谷区 〔写真説明〕神風特攻隊で命を落とした石丸進一さんの死去を伝える電報。進一さんは投手として名古屋(現中日ドラゴンズ)で活躍した。(石丸剛さん提供) 〔写真説明〕神風特攻隊で命を落とした石丸進一さん(左)と兄の藤吉さん(石丸剛さん提供)

2025年07月31日 07時41分


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