「平和あってこその野球」=きのこ雲目撃、復興語り継ぐ―元カープ捕手の長谷部さん



原爆投下から4年後に創設された市民球団の広島カープ(現広島東洋カープ)。特定の親会社を持たず、資金難に苦しみながらも市民の寄付に支えられた。きのこ雲を目撃し、被爆後の復興期を生き抜いた元カープ捕手の長谷部稔さん(94)は「平和あってこその野球」と力を込める。

1945年8月6日、県立広島工業学校(現・県立広島工業高)2年の長谷部さんは、学徒動員先の工場が休みだったため、爆心地から約9キロ離れた現在の広島市安芸区の自宅にいた。午前8時15分。部屋の中が突然ピカッと光り、ドーンという地響きが襲う。爆弾が落ちたと思い、近くの川の土手へ向かうと、きのこ雲が見えた。「色は紫がかったピンク。煙はだんだん大きくなり、ボーンと上がった」。光景は今も脳裏に焼き付く。

原爆で校舎が倒壊したため、黒板や机を運び出して青空教室が開かれたが、勉強どころではなかった。広島駅周辺には闇市が広がり、移動客の弁当を奪う若者の姿も。「同じようになりたくない」との思いで、学校では野球に打ち込んだ。

49年に広島カープが創設され、試しに入団テストを受けると強肩を評価されて合格。地元選手を獲得して年俸を抑えたいという監督の説得を受け入団したが、球団は深刻な経営難に陥っていた。

ユニホームなどの購入資金を集めるため、公式戦前に実家近くで紅白戦を開くと、父親ら多くの住民が駆け付けた。当時貴重だった肉の差し入れもあり、球団は地域ぐるみの支援を受けた。

経営難を救うため、50年ごろには球場入り口に酒だるを置いて寄付を募る「たる募金」も始まり、遠征費や運営費を支えた。長谷部さんら若い選手は練習後、商店街でサイン入り鉛筆を売り歩いた。専用球場はなく、金銭的に球場が借りられない時は母校の校庭で練習した。

捕手として活躍した7年間、苦難の中でのチームの成長や、復興に対する市民の熱意を感じた。「市民らに助けられて生き残った球団。恩返ししたいという気持ちでプレーした」と振り返る。

81年前のあの日、「亡くなった人を川にあふれるほど見た。その光景は今も染み付いている」と話す長谷部さん。「平和だからこそ野球ができ、みんなで喜び合える」。球団を支えたファンへの感謝と平和への願いを胸に、広島の今を見守る。

【時事通信社】 〔写真説明〕被爆体験や広島カープ創設期についてインタビューに答える元プロ野球選手の長谷部稔さん=6月10日、広島市安芸区 〔写真説明〕自宅の庭で広島カープの帽子をかぶり、撮影に応じる元プロ野球選手の長谷部稔さん=6月10日、広島市安芸区 〔写真説明〕被爆体験や広島カープ創設期についてインタビューに答える元プロ野球選手の長谷部稔さん=6月10日、広島市安芸区

2026年08月06日 20時32分


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