特攻に異議、命尊ぶ「人の道」=「芙蓉部隊」合理性重んじた少佐―100歳元隊員、平和実現訴え



第2次世界大戦末期、爆弾を積んだ航空機などで敵艦に体当たりする特別攻撃(特攻)に公然と異を唱えた指揮官がいた。合理性を重んじた、「芙蓉(ふよう)部隊」の美濃部正少佐=1997年に81歳で死去=だ。元隊員渋谷一男さん(100)=静岡県島田市=は「美濃部さんからは命を大切にする人の道を学んだ」と語り、平和な世界の実現を訴える。

41年12月、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった。渋谷さんは翌年、16歳で海軍を志願。「国のために尽くして死ぬのは崇高だと思った」。海軍に入り航空無線を学んだ後、同県焼津市にあった藤枝基地に配属された。

芙蓉部隊は45年1月、この基地で生まれた。基地から見える富士山(芙蓉峰)にちなみ命名された。

指揮官は当時29歳の美濃部氏。自伝「復刻版

大正っ子の太平洋戦記」(方丈社)によると、翌2月の沖縄戦会議で「全機特攻」方針が示されると、「特攻の掛け声ばかりでは勝てない」「同じ死ぬなら、確算ある手段を」などと発言。上官ら約80人を前に猛然と反論し、特攻の代わりに夜間攻撃を認めさせた。

「すごいことを言うなと思った」。後に知った渋谷さんは今も驚きを隠さない。美濃部氏の長女中野桂子さん(81)=浜松市中央区=は「父は常に最善の方法を考える人だった。夜襲の方がうまくいくと思ったのでは」と話す。

ただ、美濃部氏が課した訓練はきつかった。夜間視力強化に向け、隊員は昼夜逆転の生活を送った。午前0時に起床し、夜間飛行の訓練や通信のやり方などを日々学ぶ。渋谷さんも「常に戦果を求められる厳しい訓練だった」と振り返る。

米軍が沖縄に上陸した3月以降、部隊は主力を鹿児島県に移した。渋谷さんは岩川基地(同県曽於市)から2回、2人乗り爆撃機「彗星(すいせい)」で沖縄に出撃。後部座席に偵察員として乗り、攻撃結果を無線で報告した。未明の攻撃だったため彗星が落とす爆弾がさく裂する様子ははっきり見えた。

出撃に伴い、部隊からは戦死者も出た。渋谷さんは美濃部氏について「『無事に帰ってこい』と直接は言わないが、近くにいてそう思っていることはよく分かった。部下を実の弟のように思いやっていた」と懐かしむ。

渋谷さんは戦後、無線技術者として働く一方、非行少年らの更生を支える保護司を約40年務めた。「美濃部さんから命を大切にする姿勢を学び、人助けや社会の役に立ちたいと思った」からだ。

出撃から81年。世界では分断が進み、ロシアによるウクライナ侵攻など戦火は今も続く。「国のトップにはそれぞれの立場があるのは分かるが、話し合いの努力を続けてほしい」と強調する渋谷さん。「命の大切さを理解する子どもが増え、戦争のない世の中になってほしい」と願い続ける。

【時事通信社】 〔写真説明〕芙蓉部隊指揮官を務めた美濃部正氏。1940年春撮影。当時は中尉で、見合い用に撮影したものという(遺族提供) 〔写真説明〕芙蓉部隊の体験を振り返る渋谷一男さん(右)。左は美濃部正氏の長女中野桂子さん=5月17日、静岡県島田市 〔写真説明〕渋谷一男さんの肖像画(本人提供)

2026年08月14日 07時04分


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