司馬遼太郎が開高健の妻に送った手紙



手もとによき便せんなく、このような紙に書くことをおゆるしください。悲しみのなかの牧さんからのお電話に、荊妻恐懼し、ことばをうしない、血が滞って、お電話がおわると、しばらくぼんやりしていたそうです。

開高健はわが国の二十世紀を代表する作家でありました。なによりも日本語を改造しようと心がけました。掘鑿のある文体を創造しようとし、日常会話までそのようになりました。

この人はよく書き、よく語りましたが、余人は知らず、この人にあっては、自分の全体を語ることでありました。十九世紀の英国の小浜のようにとりすました観照のために文■つかうことをせず、二十世紀のアメリカ語文体のようにシャベルで大地を掘るような文体を観照的な文章言語である日本語に■というのが開高健の生涯の個人的作業であったでしょう。(むろんアメリカうんぬんは比喩であって、アメリカ文■ことではありません)

かれは日常、開高語でしか話しませんでした。才能であるとともに志であり、ついにはその話し方、スタイルが開高健そのものになりました。かれはこの言語をつかうために同国の同業者とも、月並みな関係を保つことがやや困難になり、さればこそ辺境を歩き、希少文化ともいうべき少数者たちと話すことを好むようになったのかとさえ思えます。(少数民族などに対しては、ナマの感情や電流のとおったことばで話しかけることができます。戦物における軍人たちもまたそういう言語やスタイルで話せる相手だったでしょう。)

日常性のなかのかれは、おそらく牧さんと道子さんとの関係においてしかなく、他は東京にいても同業世界にいても、それらをかれは異言語の世界だとおもっていたにちがいありません。

それでこそ開高健でありました。存在そのものがその意味において壮烈であり、崇高でさえありました。ただ一人の人でもありました。だから牧さんは小生に弔辞をよむようにとおっしゃったのだろうと小生は即座に思い、新田くんに諾なる旨を伝えました。この壮烈な(立ち木をそのまま彫刻したような作品を書いたという意味)文学者にとっての小生の立場は明快であります。やや年長の同郷人ということだけであります。さらには、読者であるということだけであります。読者としての弔辞を申しのべます。

同封の小生の電報、電報係はじつによく聴きとっていて、そのとおりであります。

合掌

十二月十八日

司馬遼太郎拝

【注】原文のまま。■は解読不能。

2026年04月25日 07時02分

society


関連記事

政治・行政ニュース

社会・経済ニュース

スポーツニュース