「何事にも努力」「立派な首相だった」。護憲と平和を訴え続けた村山富市元首相(101)が亡くなった17日、地元大分県や沖縄県などからは村山さんの人柄をしのび悼む声が相次いだ。
村山さんの自宅近くに住む大分市の女性(80)は、約70年前の大分市議時代から村山さんを知るという。「毎日リハビリを頑張っていた。握手が好きな人だったが、最近は弱々しかった」と振り返る。「昔からみんなに『トンちゃん、トンちゃん』と呼ばれていた。何事にも努力家で質素な人だった」と肩を落とした。
最期をみとった社民党大分県連の元副幹事長安部逸郎さん(67)は「まさに眠るようだった。長きにわたってご苦労さまでした」と話した。「直系の弟子」を自負する元社民党党首で立憲民主党の吉田忠智参院議員(69)は、同市内で記者会見し「残念至極で寂しい思いだ」と唇をかんだ。
吉田さんは、村山さんと活動を共にした自治労会館で会見。「村山さんからもらった『大衆と共に、大衆に学ぶ』という教えを胸に刻み、志を引き継ぎたい」と力を込めた。
沖縄県では村山政権下の1995年、米兵による少女暴行事件を受け、大田昌秀知事(当時)が民有地を米軍用地として強制使用する際に必要な「代理署名」を拒否。国は知事を被告として提訴したが、知事を支援した沖縄国際大の石原昌家名誉教授(84)は「立場上やむを得ずしたことで、耐え難かったのでは」とおもんぱかる。
村山さんは戦後50年の95年に村山談話をまとめ、戦時中のアジアでの日本の行動を「侵略」と認めて「心からのおわび」を盛り込んだ。石原さんは「村山さんは非常に良心的な方で、談話は沖縄にとっても良かった」と評価した。
広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の箕牧智之理事長(83)も村山談話について「日本が加害者でもあることを国民に伝えた。立派な首相だった」と振り返る。その上で「被爆者らのことも考えてくれた。今後も村山さんのような人に政治のかじ取りをしてもらえたら」と述べた。
村山さんは95年施行の被爆者援護法の制定にも努めた。もう一つの県被団協の佐久間邦彦理事長(80)は「国家補償につながらなかったのは残念だが、被爆者の多くは援護法ができたことで救われた面もあったのでは」と話している。
【時事通信社】
〔写真説明〕村山富市元首相=2015年12月、大分市
〔写真説明〕1995年11月24日、首相官邸で大田昌秀沖縄県知事(左)との会談に臨む村山富市首相
2025年10月17日 19時44分