「戦争は人も心も殺す」=2度の空襲、間一髪生き抜く―千葉の87歳女性



太平洋戦争末期、米軍による空襲で市街地の約6割が焼失し1200人超が犠牲となった千葉市の「七夕空襲」から7日で80年を迎えた。七夕空襲を含む2度の空襲を経験した同市の元教師高山章子さん(87)は「攻撃が少しずれていたら私は今ここにいない。戦争は人も心も殺してしまう」と当時を振り返る。

1度目の空襲は1945年6月10日の朝だった。日曜日で国民学校が休みだった高山さんが遅めの朝食を終えると、警戒警報が響き渡った。近くの防空壕(ごう)への避難準備を始めると空襲警報に切り替わった。

玄関で靴を履こうとした瞬間、「ダカダカダカ」というごう音とともに爆風による砂ぼこりで視界が真っ暗になった。国民学校で教えられた通り、目と鼻と耳を手で覆い地面に伏せた。家族は押し入れに入るなどして無事だった。

高山さんは数日後、防空頭巾の一部が焦げてえぐれていることに気付いた。「伏せていなかったら死んでいた」。近くの病院には爆弾が直撃し、遺体が家の目の前の空き地に置かれた。腕や足が折れ曲がっており、「空襲で死ぬとはこういうことなのだ」と感じた。軍のトラックが遺体を運び出した時は近所の人たちと最敬礼で見送った。

2度目は7月7日未明に起きた。「また空襲だ」と心臓がバクバクした。父の呼び掛けで海に逃げ、海岸沿いを西にひたすら歩いた。空が真っ赤に染まり、火の粉が雨のように絶え間なく降り注いできた。

高山さんらは衣服に火が燃え移らないよう、防空頭巾を何度も海水に浸し歩き続けた。後になり、海岸沿いを自分たちとは逆方向に逃げた人々は米軍機からの機銃掃射で亡くなったと知った。

高山さんは約10年前から、2度の空襲を後世に伝えるため、小中学校などで講演活動を続ける。かつての同僚に「経験を伝えた方がいい」と言われたのがきっかけだ。高山さんは「戦争は物を壊し、人を殺し、最後は心も殺してしまう。何もいいことはない」と訴えている。

【時事通信社】 〔写真説明〕2度にわたる空襲経験を語る髙山章子さん=5月20日、千葉市

2025年07月06日 06時53分


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