朝鮮半島500キロ、決死の逃避行=終戦直後、飢えに耐え歩く―88歳「戦争は人の感情奪う」・山梨



終戦直後、当時8歳の坂田肇さん(88)=山梨県笛吹市=は朝鮮半島を500キロ以上南下し、日本に引き揚げた。生還から80年。坂田さんは壮絶な体験を振り返り「戦争は人の感情を奪う」と話している。

坂田さんは1937年、現在の北朝鮮北東部の吉州で生まれた。父母と妹2人の5人家族。日本人居住地は鉄条網で囲われ、野球場や映画館、神社などがあり、何不自由ない生活を送った。

しかし、40年には父が旧海軍に召集され、戦争末期には米軍の空襲も始まったという。「戦闘機が何機も低空飛行で来た。見境なく機銃掃射してきて、人が亡くなった」。坂田さんはコーリャン畑に身を隠し、難を逃れた。

45年8月15日の玉音放送は母や妹らと聞いた。この日以降、町には旧ソ連の戦車が何十台も押し寄せた。兵士は夜間、男性が兵役で不在の家を狙い、たんすなどの家財を略奪。性被害を恐れた女性は丸刈りにし、男性のような服を着た。「毎晩どこかで銃声が聞こえ、寝る暇がなかった」。

一家は父の安否が分からないまま、引き揚げを決意。略奪で何もなくなった家を後にし、船が出る500キロ以上南の釜山港を目指した。

鉄橋や線路が壊れて列車が走行できない区間は、とにかく歩いた。飢えをしのぐため野草やカエルを食べ、ボウフラが浮く防火用水を沸騰させて飲んだ。崖から身を投げる人や餓死しそうな人を何度も目撃した。「人間が人間ではなくなっていた」。ソ連兵が投げ与えた腐った黒パンを子どもが争って食べた場面は、今も脳裏に焼き付く。

終戦後、朝鮮半島は北緯38度線を境に、北をソ連、南を米国が占領した。坂田さんの記憶では、38度線付近にはソ連兵が約50メートル置きに立ち、持ち物はほとんど取られた。38度線を南に越えた後は、米兵からもらった乾パンを食べ、2歳の妹をひもで抱き、歩き続けた。出発から約1カ月後、釜山港に到着。坂田さんの体は栄養失調で骸骨のようだった。

引き揚げ後の約10年間は、戦争体験のトラウマから「恐ろしさを感じることができない、感情を失った人間だった」。世界では今も戦争が続く。坂田さんは「ニュースで戦闘の映像が流れると体験を思い出してしまう。戦争がない世の中になってほしい」と願い続ける。

【時事通信社】 〔写真説明〕引き揚げについて説明する坂田肇さん=6月4日、山梨県笛吹市 〔写真説明〕坂田肇さんが描いた機銃掃射する米軍の戦闘機=6月4日、山梨県笛吹市 〔写真説明〕坂田肇さんが描いた崖から身を投げる人たち=6月4日、山梨県笛吹市

2025年08月16日 20時40分


関連記事

政治・行政ニュース

社会・経済ニュース

スポーツニュース