平和のバトン受け取った=歌手・加藤登紀子さん―戦後80年を語る



戦後80年を迎え、戦争の記憶をどう継承し、平和をいかに問い直すかが改めて問われている。歌手の加藤登紀子さん(81)が「あの時」を振り返り、平和への願い、次世代へのメッセージを語った。

戦後80年という機会に、この戦争がなぜ始まったのかということを見つめてほしいと思います。私は終戦前を知っている世代として、どう語っていくのか、すごく大事な責任を感じています。

「紅の豚」(宮崎駿監督のアニメ映画)の話をする時にいつも言うんですけど、あれは約100年前、1929年が舞台です。第1次世界大戦が終わり、ヨーロッパ、バルカン半島は古い帝国主義の大国から解放され、ある種の開放感に満ちているのがあの映画です。強い国が倒れ、自由になっていますが、戦争後のズタズタな世の中で、世界は混乱している。ただ分かっているのは、戦争はもう嫌だという、強いメッセージがあの映画なんですよね。

だけど、残念ながら92年に上映された時、バルカン半島(ボスニア・ヘルツェゴビナ)は内戦に突入していました。人間は幾度も、戦争しない世界を求めてきました。そして、それぞれ素晴らしく、開花し、抑圧されない、あらゆる人種がのびのびと一緒に生活できる、そういう未来像を描いてきました。

日本は戦後、国と国との関係を戦争で解決することは一切放棄するという憲法を持ち、80年を生きてきました。第1次大戦後、全世界が戦争のない世界を目指そうと理想を掲げた。その理想をそのまま憲法にしたのが日本の憲法9条です。日本は人類の描いた平和のバトンを受け取った国なんです。戦後80年守り抜いた日本の宝は9条だと思っています。今、日本は平和のバトンを受け取った国として、世界に向かってリーダーシップを発揮するべきです。

◇引き揚げは歴史の奇跡

私は、日本人が中国を侵略し、その侵略地で生まれ、日本が敗戦することによって難民になった。国と国の間のクレバス(割れ目)に落ちた者です。幸い引き揚げることができたけれど、もしかしたら何者でもなく、日本人としてのアイデンティティーもなく、難民としてどこかで生きることになっていたかもしれない。引き揚げができたのは歴史の奇跡だと思っているんですよね。

日本人を難民として葬り去るのではなく、祖国に帰すという気持ちを中国の人が持っていてくれたことに感謝しています。

(戦争経験は)無数のエピソードがあります。平和、戦争は2文字で語れるようなものではない。1人ずつ自分の物語を生きているんですよ。その物語を通し、戦争を知ってほしいと思っています。

国を一度外から見たのが、私の家族の歴史だと思います。私の母は結婚し、京都から満州に行き、中国で終戦を迎えました。戦争が起こる前から10年間、ハルビンにいました。母はその生活を非常に愛していました。

ハルビンはいろんな人種の人が暮らしている町で、母は私にいつも、人と人は、必ずあなたと私という関係で会っていけばいいのよ、と言っていました。戦争の真っ最中であっても、人は人であるというのが母の絶対的な信条です。

母はよく言っていました。人と人の関係があれば国と国の関係なんて、消えてしまうものよって。そういうところで生まれ、いろんなことを経験してきました。いろんなものを栄養にしてきたという粘り強さ、熟成された心の強さを大事にしたいなと思います。(聞き手=時事通信政治部・古川夏月)

◇加藤

登紀子さん(かとう・ときこ)1943年12月、満州ハルビン生まれ。東京大学在学中に歌手デビュー。「知床旅情」でレコード大賞歌唱賞を受賞。映画「紅の豚」では声優を務め、主題歌「さくらんぼの実る頃」を歌った。

【時事通信社】 〔写真説明〕インタビューに答える歌手の加藤登紀子さん=7月16日、東京都渋谷区 〔写真説明〕インタビューに答える歌手の加藤登紀子さん=7月16日、東京都渋谷区

2025年08月19日 14時31分


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