「人間はばか」としゃべり続ける=落語家・林家木久扇さん―戦後80年を語る



戦後80年を迎え、戦争の記憶をどう継承し、平和をいかに問い直すかが改めて問われている。落語家の林家木久扇さん(87)が「あの時」を振り返り、平和への願い、次世代へのメッセージを語った。

戦争は大変悲惨です。今も外国で続けられ、人間はばかだなと思います。ニュースで焼け跡や孤児を見ると、あれは(80年前の)僕だったんだなと。人ごとじゃないんですよね。

久松小学校(東京都中央区。戦時中は久松国民学校)1年生のとき、毎晩のように空襲がありました。(警報用)サイレンが自宅近くにあり、障子が震えるほど鳴るんですね。あれは特に怖かった。鳴っているときには敵機はもう来ているんです。爆弾が落ちると、空は明け方まで延焼で明るい。小学校に地下壕があり、いつもおばあちゃんの手を引いて逃げました。

情報はラジオ頼みです。「東部軍管区情報。空襲警報発令…」と伝えるのですが、ラジオが古く「トッ…アッ…」と(音が途切れて)よく聞き取れない。

無防備な一般市民を焼き殺したのは戦争犯罪の最たるものです。隅田川に飛び込み大勢の人が溺れたり、(劇場の)明治座の地下室に「無事だろう」と閉じこもった人が蒸し焼きになったりしました。

食べ物も米はない。サツマイモの茎とかジャガイモの皮とか何でも食べました。栄養が偏って体におできがいっぱいできました。

(杉並区)高円寺に母と私と妹が移った直後、日本橋に爆撃があり、実家は焼けました。(1945年3月の東京大空襲)。父は警防団の団長だったので残っていました。当時は逃げると非国民でした。小学校にある防火用水に一晩漬かり(戦火を)しのいだそうです。父は翌日、黒焦げの自転車を引いて高円寺に着きました。すごく煙臭かったことを覚えています。

(玉音放送は)西荻窪の小学校で聞きました。校庭の真ん中にラジオが置かれ、みんな土の上に正座しました。天皇陛下が「忍び難きを忍び」なんて言っているんですけど、小さいラジオですから良く聞こえなくて。帰り道に母が「日本は負けたんだよ」と言い、もう空襲はないんだって思いました。

(終戦直後)小学校4年生で両親が離婚し、僕は母と暮らしました。とにかく貧しい。母を言葉で励まし、新聞配達を始めました。とにかくお金をうちに入れ、母を助けないと、と思いました。夏には映画館でアイスキャンディーを売りました。映画が終わる10分ぐらい前に中に入り、いつもラストシーンを見ていたんです。毎日見たのでチャンバラ映画の一騎打ちなど一番いい場面を覚えました。学校などで声色(声帯模写)をすると受けた。人気者になって。

(落語では)戦時中のラジオ放送や飛行機、高射砲の音もまねしました。サイレンの音が得意で、1分ぐらい「ウー」とできたんですよね。それを面白がってくれて。結構仕事が来ました。

◇ギャラなくても

戦争を体験した落語家として、戦争を忘れちゃいけない、としゃべるのはとても大事なことだと思っています。都民が10万人も焼け死に、戦火をさまよった事実を「大変だった」というだけでなく「人間は本当にばかだ」としゃべらなくちゃいけない。戦後、新幹線やスマホができるなど人の暮らしは変わりましたが、人間の浅ましさや野蛮さは消えていないですね。

(テレビ番組の)「笑点」は卒業しましたけど、いまだにお仕事はいっぱい来るんです。戦時中の話をしてくれと。落語家が戦争をしゃべることで(メッセージが)やわらかくなる、異色だということで呼ばれるんですけど、ありがたいと思います。ギャラが出る、出ないを別にして、大事なことだと思っていて積極的に参加しています。(聞き手=時事通信政治部・大塚洋一)

◇林家木久扇(はやしや・きくおう)1937年10月、東京・日本橋生まれ。落語家。三代目桂三木助に入門。三木助死後、八代目林家正蔵門下へ移り「林家木久蔵」となる。2007年、木久扇を襲名。

【時事通信社】 〔写真説明〕インタビューに答える落語家の林家木久扇さん=1日、東京都世田谷区 〔写真説明〕インタビューに答える落語家の林家木久扇さん=1日、東京都世田谷区

2025年08月20日 14時30分


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