太平洋戦争の終戦前日、陸軍機上通信兵だった各務義彦さん(98)=愛知県東海市=が、上官から告げられた出撃命令は、事実上の「特攻」だった。数時間後に出撃は中止となり、日本は敗戦した。「僕らは消耗品だった」。各務さんは翻弄(ほんろう)された人生を振り返り、二度と戦争を起こしてはならないとの思いを語った。
農家の九男として岐阜県で生まれた各務さんは、16歳で陸軍航空通信学校に入校し、各地を転々としながら訓練を積んだ。約1年半がたった1945年春、福岡県にあった軍司令部で飛行第66戦隊への配属を告げられた。鹿児島県の知覧飛行場へ行くよう命じられたが、同期8人で到着すると、同戦隊の拠点は同県内の万世飛行場と判明。司令部の混乱ぶりを目の当たりにし、日本軍の戦況悪化を悟った。
第66戦隊は、沖縄・嘉手納湾沖の米艦隊への攻撃と特攻機の誘導が主な任務。機上通信兵は2人乗りの九九式襲撃機の後部座席に乗って出撃するが、戻った兵士から聞こえてくるのは、敵艦からの猛烈な射撃で空は火柱のようだったという、力の差を示す話ばかりだった。
同期とは、戻れずに敵艦に突っ込む時に無線機で送る別れの合図を決めたこともあった。ただ出撃した同期は、合図も送ることなく、戻ることもなかった。
道端にひざまずき、「兵隊さんは国を守ってくれる神さまだ」と手を合わせるおばあさんの姿が頭から離れなかった。機体が故障しても部品不足で修理もままならない状況だったが、白飯が食べられるなど特別な待遇を受け、どんな命令が下ろうとも「やらないとあかん」を腹をくくった。
その後、第66戦隊は福岡県の大刀洗飛行場に移駐したが、既に制空権は奪われていた。米軍機から機銃掃射を受け、田んぼに飛び込んだこともあった。空中戦で日本軍の2機が撃墜される場面も目撃。飛び立っていった兵士はほとんど帰ってこなかった。
8月14日夕、翌朝の出撃が伝えられた。特攻隊員ではなかったが、上官からの命令は「特攻だ」。自然と死を受け入れ、遺骨代わりに髪の毛や爪を封筒に入れ、両親に宛ててはがきをしたためた。
「前略、これが最後の便りになります。今度こそ、生きて帰ることは難しいかと思われます。何の親孝行も出来(でき)ず申し訳ありません」
寝られないまま日付を越えると、出撃中止の命令が下った。正午の玉音放送は雑音ばかりで何を言っているか分からず、数時間後に「戦争は終わった」と知った。やり場のない感情が爆発し、叫びながら竹やぶで日本刀を振り回した。「情けなかった」。翌日には、指示を受け機体から外した通信機を池に沈め、使用していた暗号表は燃やした。
実家に帰ると、仏壇に「遺書」のはがきが立てかけてあった。両親は驚きながら喜んで迎えてくれた。その後、自衛隊の前身の警察予備隊から誘いがあったが、「もう戦争はごめんだ」と断り、就職した鉄鋼会社で定年まで勤めた。
「僕らは消耗品だった。特攻は最たるもので、本当にむごたらしい作戦だった」と振り返る各務さん。戦死した仲間への後ろめたさは、消えることはない。「戦争は二度と起こしてはならない」。
【時事通信社】
〔写真説明〕九九式襲撃機の模型を手に自身の経験を語る元機上通信兵の各務義彦さん=4月9日、愛知県東海市
〔写真説明〕飛行第66戦隊に着任した当時18歳の機上通信兵、各務義彦さん=1945年、鹿児島県(本人提供)
〔写真説明〕戦友からの寄せ書きのコピーを見ながら自身の経験を語る元機上通信兵の各務義彦さん=4月9日、愛知県東海市
2025年08月15日 12時39分