「旧敵国の花嫁」、豪移住で苦難=白人優遇時代に日本色封印―多文化転換で交流に尽くす



第2次大戦直後、日本に進駐した連合国軍のオーストラリア人兵士と結婚した日本人女性約650人が豪州に渡った。白人が優遇された当時の豪社会で、旧敵国から来た花嫁には冷たい視線が注がれ、日本人であることを封印して暮らす苦難を強いられた人もいた。

◇名前も英語に

日系人団体「ニッケイ・オーストラリア」のエリシャ・レイ代表(38)の祖母、昭子・カーカムさん(旧姓平野)は1953年に豪州に移住した花嫁の一人だ。

27年に大阪府で生まれ、広島県内の軍需工場に動員されていた時に終戦を迎えた。戦後、同県呉市の進駐軍施設でタイピストの仕事を得て、そこで18歳上の豪兵士グレン・カーカムさんと出会って結婚。夫の任務終了に伴い豪州へ移った。

英国の植民地から連邦国家となった豪州は当時、有色人種の移民を制限する「白豪主義」を国策とし、日本人を「エネミー・エイリアン(旧敵国の異人)」と位置付けていた。「豪州人になりきる」と決意した昭子さんは、便宜的に「エルサ」を名乗り、8年かけて帰化した。

◇「解放」後は通訳

夫妻は4人の子供に恵まれ、東部ブリスベンや首都キャンベラなどで暮らした。だが、42年の旧日本軍によるダーウィン爆撃をはじめ交戦の記憶が生々しく残る時代、日豪の結婚に反対や不快感を示す人も少なくなかった。1人の娘(レイさんの母)は、容姿に関していじめに遭ったという。

昭子さんは豪社会に溶け込むため日本語を一切話さず、料理も英国式を貫いた。グレンさんは中傷やいじめに厳然と対応し、家族を守った。一方、周囲の支えを得られず孤立し、自ら命を絶った花嫁もいたという。

子育てが一段落した昭子さんはタイピストとして、ひっそりと日本語の教科書作成に携わった。73年、豪政府が白豪主義を撤廃し、多文化を認める路線へ転換すると、昭子さんは日本色を消す20年間の抑圧からようやく「解放」された。その後、東部ゴールドコーストで観光通訳士を務め、日豪交流に尽くした。2022年、94歳の大往生だった。レイさんは「祖母は気丈に、前向きに生きた」と語る。

◇切り絵で歴史伝承

書道や墨絵をたしなむ昭子さんを見て育ったレイさんは芸術家になった。日本人移民の歴史について調べるうち、第2次大戦時に約4000人の日本人が強制収容・送還された悲劇を知る。多くはサトウキビ栽培や真珠養殖に従事していた。

移住の中心地だった北東部タウンズビルで、レイさんは6~7月、日本人移民をテーマに切り絵展を開催。真珠養殖の過酷な潜水労働などを和紙で繊細に表現した。レイさんは「歴史を知るだけでなく、感情で受け止めてもらいたい」と次世代への伝承に意欲的だ。(タウンズビル=豪州=時事)。

【時事通信社】 〔写真説明〕昭子・カーカムさん(右)と夫のグレンさんの結婚当初の写真=7月26日、豪ブリスベン 〔写真説明〕真珠養殖の潜水ヘルメットをかたどったエリシャ・レイさんの切り絵=7月25日、豪タウンズビル 〔写真説明〕昭子・カーカムさんの書道作品の横に立つ孫のエリシャ・レイさん=7月26日、豪ブリスベン

2025年08月15日 07時11分


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