米政府は1941年に日本と開戦後、日系人を「敵性外国人」として強制収容所に送り込み、自由や財産、尊厳を奪った。戦後80年が過ぎた今、トランプ政権は再び移民に「犯罪者」のレッテルを貼り、強制送還を進める。「二度とないように」と願った日系人社会に、繰り返される負の歴史への怒りが広がる。
◇壊された家族
7月12日。照り付ける日差しの中、米西部アイダホ州南部のミニドカ収容所跡地を、当時を知る80~90代の日系人や親族約230人が訪れた。「巡礼」と呼ばれる跡地訪問は、今年20回目を数える。
「何マイルも乾いた荒れ地が続くのを見て、ひどくショックだった」。当時10歳だったフジコ・ガードナーさん(93)は、緑豊かなワシントン州からミニドカに着き、粗末なバラックをあてがわれた。夏の灼熱(しゃくねつ)と冬の凍える寒さ、前も見えないほどの砂嵐が一家を襲う。ライフル銃を構えた兵士がにらみを利かせ、敷地には次第に有刺鉄線が張り巡らされていった。
目隠しがない共同トイレやシャワー。食べ慣れた和の食材は手に入らず、傷んだ食品を提供されて集団食中毒が起きることもあった。砂嵐の日は「食事に砂利が混じった」という証言も残る。
米国に忠誠を示すため軍に志願した兄は、イタリアで戦死した。物静かな父は怒りで精神のバランスを崩し、宿舎に引きこもってしまう。突然の強制収容は、「一家をばらばらに壊した」(ガードナーさん)。
◇苦難語らず
41年12月7日(日本時間8日)の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃の後、日系人は土地を追われ、最小限の荷物のみで列車に乗せられた。ミニドカには42~45年の間に、ワシントンやオレゴンなど西部州から計1万3000人が強制収容された。
収容所を出た人々にも過酷な差別が待ち受けた。「ジャップ」とさげすまれ、自宅や店舗が焼き打ちに遭うケースもあった。
だが、多くはこうした苦難を語ろうとしてこなかった。囚人のように扱われたことに対する「恥」の感覚や、抗議をすれば同胞への憎悪を助長するという恐れのためだ。子や孫に迷惑をかけまいとの一心で不条理に耐え、働いた。
勤勉で規律正しい日系人は「モデル・マイノリティー(模範的な少数派)」となり、米社会に受け入れられていく。その陰で、強制収容の実態は知られないままだった。米政府が公式に謝罪や賠償をしたのは、終戦から43年後のことだ。
◇排斥、再び
トランプ政権は今年、不法移民送還のため、日系人排斥に使われた「敵性外国人法」を再び発動した。令状なしに、犯罪歴のない移民らが中南米系を中心に次々と拘束・収容されている。人権擁護団体「ツル・フォー・ソリダリティー」のマイク・イシイ代表(59)は、「特定の集団を監視し、投獄し、排除する『ひな型』に、日系人の歴史が利用された」と憤りをあらわにする。
収容の記憶から、「ニドトナイヨウニ」を誓いとしてきた日系人。「強制収容を生き延びたコミュニティーには、果たすべき役割がある」。イシイ氏は、政権に「ノー」の声を上げる必要性を訴えている。(ジェローム=米アイダホ州=時事)。
【時事通信社】
〔写真説明〕日系人収容所の居住棟に使われたバラック跡=7月12日、米西部アイダホ州ミニドカ収容所跡地
〔写真説明〕日系人収容所での生活を説明するフジコ・ガードナーさん(右端)=7月12日、米西部アイダホ州のミニドカ収容所跡地
〔写真説明〕復元された日系人強制収容所の見張り台=7月12日、米西部アイダホ州ミニドカ収容所跡地
2025年08月15日 12時39分