旧満州(中国東北部)に開拓団の一員として8歳で移住した滝澤博義さん(91)=長野市=は、旧ソ連の侵攻に伴い3週間の逃避行を強いられた。その道中、集団自決のため父親が弟と妹の命を銃で奪うという壮絶な体験をした滝澤さん。「私たちは国策の犠牲者。悲劇は二度と繰り返してはならない」と訴える。
1943年3月、「満州で一旗揚げよう」と意気込む父に半ば強引に連れられ、今の長野県木島平村から旧満州東部へ。滝澤さんの地元などで組織した高社郷開拓団の一員として、両親と兄2人、妹、弟の計7人で入植し、移住後には末の妹が生まれた。
何不自由ない生活が続いたが、45年8月9日、旧ソ連が旧満州への侵攻を開始。現地にいるはずの関東軍は逃げていたとみられ、行き先が不明なままの逃避行が始まった。
襲撃に遭いつつ高社郷開拓団は南下を続けた。しかし、玉音放送から9日後の8月24日、旧ソ連からの襲撃を恐れ集団自決をすることになった。
集団自決により、開拓団約700人中500人余りが亡くなった。滝澤さんの弟と末の妹は父により銃で命を奪われた。滝澤さんも妹らとともに開拓団の人の手で殺されるはずだったが、母に連れ出され助かった。弟と妹の死を悲しめず、父を恨む余裕すらなかった。
逃避行の末、収容所に入れられたが食事は不十分なため、収容所近くの市場でリンゴを盗んで食べた。盗みは悪いことだと分かっていたので、その行為は今も頭から離れない。
旧満州の葫蘆島から引き揚げ、46年10月に帰郷。親戚の家を転々とし、周囲からは冷たい目で見られた。中学に進んでも制服を買う金がなく私服で通学。冬でも長靴が買えず、雪の日にはげたで登校した。恥ずかしさから毎日早朝に家を出た。
「もっと早く敗戦を知っていたら、自決の必要はなかった」。戦後は行き場のない怒りを覚えるしかなかった。ただ最近になってようやく心に余裕もでき、経験した悲劇について悲しみや悔しさを感じ、涙をこぼすようになった。
「お国のためと思って満州に移り、死んでいった開拓団民は国策の被害者だ。そのことを知ってほしい」。その思いから悲劇を語り続ける。
【時事通信社】
〔写真説明〕旧満州時代の写真を見詰める滝澤博義さん=6月、長野市
2025年08月13日 14時32分