太平洋戦争末期、本土決戦に備えゲリラ戦の準備を進めた秘密機関がある。現在の浜松市天竜区にあった旧日本軍の陸軍中野学校二俣分校だ。兵庫県明石市の井登慧さん(102)は同校で潜入や破壊工作などの訓練を3カ月受け、「秘密戦士」として活動した。井登さんは「私も軍隊の駒だった。ばかな戦争は絶対にやってはいけない」と力を込める。
国民学校高等科の教師だった井登さんは1943年1月、徴兵検査に合格。44年、将校養成のため現在の千葉県船橋市にあった陸軍騎兵学校に入った。
7月ごろ、教官から突然、会議室へ行くように告げられた。部屋では机の向こう側に軍服姿の面接官が数人いて、「親兄弟と縁を切ってもいいか」などと聞かれた。
その後、突然後ろを向かされた後に正面に向き直ると机の上には何もなく、「机の上に何があったか」と聞かれた。一生懸命思い出し「たばこ、灰皿、万年筆、書類」と答えると、「よし」と返事があったという。
訳が分からず終わった15分間ほどの面接に、井登さんは「合格」。9月1日、二俣分校に1期生として入った。同期は約230人。看板は「陸軍二俣幹部教育隊」で「中野」の文字はなかった。
入校の際、「ここでは秘密戦の訓練を受ける。遊撃戦(ゲリラ戦)の戦士として戦場に行く」「二俣分校の名前は絶対に秘密にしておけ」と訓示を受けた。教官は軍人なのに丸刈りではなく、「異様な感じだった」。
「生き延びて任務を完遂せよ」「捕虜になってもいい。デマを流して敵を混乱させろ」。同校の教えは独特で、それまでにたたき込まれた「命を惜しむな」や「生きて虜囚の辱めを受けず」とは正反対の考え方だった。
3カ月間の授業は濃密だった。橋の爆破演習では、橋を渡った後に教官から「橋の長さ、川の深さは」「爆破に必要な火薬量は」と次々に聞かれた。観察眼や分析力を磨く「候察(こうさつ)」の一環だった。飛行場に潜入した後に飛行機を爆破する演習や、バーの女性から情報収集する訓練もあった。
11月末に卒業したが、二俣分校にいた3カ月間は軍歴に記されなかった。卒業後は大阪の中部軍司令部を経て少尉となり、45年1月に台湾へ。台湾では現地住民らでつくるゲリラ部隊の中隊長になったが、米軍は台湾に上陸せず、終戦を迎えた。「命があり、ほっとした」。46年3月には台湾北部から1週間かけて船で帰国し、教壇に戻った。
終戦後、陸軍中野学校が突然注目されたことがある。フィリピン・ルバング島で、二俣分校を卒業した故小野田寛郎さんの生存が判明した時だ。
小野田さんは同島に約30年間潜伏し、74年に帰国。同期だった井登さんは「日曜日でも遊びに行かずに旅館で勉強するなど真面目で熱心だった。上官の命令がないから30年潜伏したのも不思議ではない」と懐かしむ。
秘密訓練から80年余り。「私も軍隊の歯車、駒の一つだった」と振り返る井登さん。「日本はばかな殺し合いをしてしまった。戦争はもう絶対にやってはならない。102歳の雄たけびです」。
【時事通信社】
〔写真説明〕陸軍中野学校二俣分校での秘密訓練について話す井登慧さん=6月8日、兵庫県明石市
〔写真説明〕陸軍中野学校二俣分校時代の井登慧さん=1944年撮影(本人提供)
〔写真説明〕台湾でゲリラ部隊を組織していた頃の井登慧さん(後列右から4人目)と現地住民ら=1945年撮影(本人提供)
〔写真説明〕小野田寛郎さん(右から2人目)と一緒に写真に納まる井登慧さん(右)(井登さん提供)
2025年08月14日 07時10分