太平洋戦争末期、空襲から逃げ惑う人々の中には障害者の姿もあった。視覚障害者の白畠庸さん(89)=京都市右京区=は「機銃掃射の音で手足が動かなかった。あんなに恐ろしいことは二度とあってはいけない」と訴える。
白畠さんは生まれつき緑内障による弱視だったが、幼少期に左目を誤って自転車のブレーキレバーにぶつけて失明し、右目がわずかに見えるだけになった。1944年4月、8歳で京都府立盲学校(同市)に入学。同府宮津市の実家を離れ、校内の寄宿舎に入った。
音楽の授業では自分の身を守るため、米軍機の飛行音が収録されたレコード「敵機爆音集」を繰り返し聴かされた。「B17はゴロゴロという重々しい音。カーチスはプーンと軽やかな音だった」
同校の防空壕(ごう)で実際にB17の後継機B29の飛行音を聞いたこともある。空襲の激化で45年3月に休校となったため、実家に戻った。
7月末、実家の裏山で友人と朝からセミ捕りをしていると、空襲警報が鳴った。逃げる間もなく「キーン」という米軍機グラマンの飛行音が聞こえ、その機体も右目でかすかに見えた。
「カタカタカタ」という機関砲の発射音とともに、銃弾が「シュッシュッ」と風を切って頭上を通った。付近の宮津湾に停泊していた旧日本軍の駆逐艦を狙ったとみられるが、白畠さんは自分が狙われていると思うほど敵機を近くに感じた。恐怖で体が硬直し、なかなか逃げられなかった。
裏山には他にも遊んでいた子どもらがいた。白畠さんが防空壕の入り口に着いた瞬間、グラマンから投下された爆弾が付近で爆発した。白畠さんや友人は無事だったが、すぐ後ろにいた男児は首筋に爆弾の破片が刺さり亡くなったという。
その後も空襲におびえる日々が続いたが、8月15日、実家のラジオで玉音放送を聴いた。集まった近所の大人たちが敗戦を知り、泣いているのが声で分かったが、白畠さんは「もう空襲で怖い思いをしなくていい」とほっとした。
終戦後、右目の緑内障が進行し全盲になりながらも、再開した盲学校を卒業。東京教育大(現筑波大)で学び、盲学校の教員免許を得た。母校の盲学校で鍼灸(しんきゅう)などを教え、定年退職後には京都市内で鍼灸院を開き、東邦大で医学博士号も取得した。
ラジオのニュースを通じ、ウクライナなど世界各地で今も争いが続くことに胸を痛める白畠さん。「戦禍に見舞われる庶民、特に女性や子どもは悲惨だ。どんな理由があっても戦争は駄目だ」と力を込めた。
【時事通信社】
〔写真説明〕インタビューに答える視覚障害者の白畠庸さん=6月17日、京都市右京区
2025年08月02日 07時04分