特攻命令を受けた旧満州(中国東北部)で戦争を終えた後、シベリア抑留の憂き目に遭った元陸軍伍長がいる。「特攻でもシベリアでも次々に死んでいった」。元特攻隊員の鳥谷邦武さん(98)=佐賀市=は、特攻命令を受けた同期の仲間うちで「死にたくねぇな」と本音を語っていたと振り返った。
1943年4月、16歳の時に大刀洗陸軍飛行学校(福岡県)に入校。朝鮮半島や満州で厳しい教育を受け、翌年夏には九七式戦闘機のパイロットとして敵艦を攻撃する訓練を始めた。
沖縄戦が激化した45年春、満州・四平で沖縄への特攻隊に指名された。この日のことは、今でも悪夢となって思い出される。「出撃はあしたか」と毎日不安に駆られながら訓練を重ねた。操縦に自信はあったが、100キロ超の爆弾を積んで飛べば敵の餌食になるのは目に見え、母親の反対を押し切って入隊したことを悔いた。
両親に遺書を出すよう命じられたが、白紙に髪の毛と爪を添えて出した。本当は「死にたくない」と書きたかったが、検閲が通らないと考えた。「血書で志願した人がいたのも事実だが、ほとんどは行きたくない、死にたくないというのが本音だった」
6月に沖縄戦が終結すると、特攻は中止になった。口には出せないが、心の中で「万歳」。ただ、既に出撃していた仲間の1人が「お前は来るなよ」と言って飛び立った姿は忘れられない。
移駐先の満州南部で終戦を迎え、10月ごろ、貨車に乗せられ西シベリア・ケメロボ地方の収容所に向かった。途中、飛び降りて脱走を図る仲間もいたが、消息は分からない。
収容所の生活はあまりに過酷だった。まばたきしただけでまぶたが凍って目が開かなくなるほどの極寒での作業。情報は全く入らず、将来も見通せない。食糧や薬が不足し、栄養失調で仲間は死んでいった。埋葬も満足にできず、木材のように固まった遺体をそりで運んで雪の中に埋めた。帰り道、オオカミがほえていたが、目をつぶるしかなかった。
47年5月に帰国。京都の舞鶴港に着くと、ランドセルを背負った小学生の姿が見え、安堵(あんど)で涙が出た。同時に、帰国を目前に作業中の事故で命を落とした仲間が脳裏に浮かんだ。
「軍に関わる金はもらいたくない」と恩給を受け取らず、戦争を遠ざけて過ごした。しかし、約10年前の戦友の死を契機に講演などで経験を語るようになった。
訓練中に痛めた右耳はほとんど聞こえない。それでも、飛行の手順はよどみなく身ぶり手ぶりで再現できる。「理不尽がまかり通る戦争を闇の中に葬ってしまうのは悔しい。戦友への供養のため、事実を知ってもらいたい」と力強く語った。
【時事通信社】
〔写真説明〕特攻隊やシベリア抑留の体験を語る元隊員の鳥谷邦武さん=5月9日、佐賀市
〔写真説明〕九七式戦闘機の前で特攻隊の体験を語る元隊員の鳥谷邦武さん=6月15日、福岡県筑前町の大刀洗平和記念館
〔写真説明〕特攻で亡くなった同期の写真に触れ、体験を語る元特攻隊員の鳥谷邦武さん=6月15日、福岡県筑前町の大刀洗平和記念館
〔写真説明〕特攻隊の同期と写真に納まる鳥谷邦武さん(写真左から2人目)=5月9日、佐賀市
2025年08月01日 07時26分