「私たちのような思い、もう二度と」=米収容所生まれの日系人―ベトナム戦争で心身に傷・戦後80年



【ニューヨーク時事】「どの人種であっても誰であっても、私たちが経験したような思いをもう二度としてほしくない」。米東部ニュージャージー州在住の古本武司さん(80)は太平洋戦争中に強制収容所で生まれ、志願してベトナム戦争に赴いて心身に深い傷を負った。戦争の悲惨さや差別の歴史の風化を危惧し、自身と家族の経験を米国の学生らに伝えている。

日本生まれの父親の清人さんは1921年、西部カリフォルニア州に渡航。10代から農場などで身を粉にして働き、38年に野菜の卸会社を設立した。しかし、真珠湾攻撃翌年の42年2月に当時のルーズベルト大統領が署名した大統領令9066号に基づき、「敵性外国人」と見なされた日系人約12万人が突然家を追われて強制収容所に。清人さんも財産を失い、過酷な生活を強いられた。

日本に帰れなくなることを恐れ、米国への忠誠と兵役を拒否。州北部のツールレイク収容所に隔離され、そこで44年10月に武司さんが生まれた。7人家族だが、部屋は狭く冬は極寒。「日系人は嫌われ、誰も助けてくれなかった。多くの親はつらい体験を戦後話さなかった」と振り返る。

一家は終戦から約5カ月後に日本に移り、親族が住む広島市に居を定めた。叔父は被爆し、大やけどを負っていたという。しかし一家は米国への再移住を決め、武司さんは11歳の時に戻った。「父は苦労して成功した経験があったから、アメリカンドリームをもう一度、と思ったようだ」。

カリフォルニアでは再び反日感情に直面した。広告を見て不動産会社に問い合わせたものの、住宅を売ってもらえないこともあった。「ばかにされたくなかった。米国人として認められなければいけない」。武司さんは大学卒業後、士官学校に入学。ベトナム戦争中の70年に情報将校としてカンボジア国境近くに赴き、北ベトナムに関する情報収集を行った。周囲には地雷が埋められ、上司は敵の待ち伏せで足を失った。「自分もいつ殺されるか分からない。人を殺す覚悟はできていた」と回顧する。後年、心臓などを患ったが、「(猛毒ダイオキシンを含む)枯れ葉剤が影響したことが分かった」という。

武司さんは71年に戦地から戻ったが、何年も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に悩まされた。「誰にも会いたくなかった。仕事に集中できずクビになった」。怒りっぽくなり、妻につらく当たることもあった。「彼女の支えがなければ、私は生きていないかも」。夫婦で74年に不動産会社を立ち上げた。日系企業の進出ブームを追い風に事業は拡大。一家が願ってやまなかった成功を手にした。

かつてトランプ大統領の所有物件の販売に携わったという武司さんは、トランプ氏が繰り返す人種差別的言動や、移民の強制送還などに危機感を抱く。「米国は移民が集まって大きくなった国だ」。7、8年前から大学や高校で、語り部として戦争の悲惨さと差別の理不尽さを訴えている。古本さんは「愛国心を持ち、米国を本当に良くしたいと思っている。過去の歴史を次世代に伝えていくことは大切だ」とかみしめるように話した。

【時事通信社】 〔写真説明〕インタビューに答える古本武司さん=7月7日、米ニューヨーク 〔写真説明〕古本武司さんの父親・清人さんが設立した会社=1938年、ロサンゼルス(古本武司さん提供・時事) 〔写真説明〕ツールレイク強制収容所にいた頃に撮影された古本武司さん=1945年(本人提供・時事) 〔写真説明〕ベトナムとカンボジアの国境付近で撮影された古本武司さん=1970年(本人提供・時事)

2025年08月15日 18時02分


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