広島への原爆投下後に降った「黒い雨」を巡り、雨を浴びた住民らが「被爆者」としての認定を求める第2次黒い雨訴訟が、戦後80年となる今も続いている。当時いた場所で雨が降ったと認められず、健康被害と不安を抱えながらも国の救済対象から外れてきた。ほとんどが80~90代で、提訴後に亡くなった人もいる。「時間がない。早い解決を」と訴える。
「ピカーっと光って、しばらくしてドーンと大きな音。すごいキノコ雲が山から上がっていた」。80年前の8月6日、当時国民学校4年だった大畑忍さん(89)=広島市西区=は、原爆の衝撃を鮮明に覚えている。
自宅は爆心地から西に23キロの現在の広島県廿日市市河津原にあった。祖母と畑仕事をしていると、灰交じりの雨が降り、燃えかすの紙片もパラパラと落ちてきた。柿の木の下で雨をしのぎ、黒っぽい灰が付いたトマトを服で拭って食べた。
雨に放射性物質が含まれていたと知ったのは、ずいぶん後のことだ。「小川の水を飲んだし、雨を浴びた野菜も食べた。ショックだった」。白内障や血小板減少症などを発症するたび、「放射線の影響ではないか」と不安を抱えてきた。
国が救済対象の拡大方針を示したことを受け、2021年に被爆者健康手帳を申請したが、「雨が降ったことが確認できない」と却下された。「調査もせずに降っていないことにされ、自分の体験が否定された」と憤る大畑さん。「降ったものは降った。証言を信用してもらわないとどうしようもない。これ以上救済を先送りにしないでほしい」と訴えた。
降雨の認定では、同一地域内で分断も生じている。当時2歳だった河藤雅敏さん(82)=広島市安佐南区=は、爆心地から北に22キロの現在の同市安佐北区大林町にあった自宅の庭で黒い雨を浴びたと、母が生前に言っていたのを聞いた。どす黒い大きな雲が来て大雨が降り、びしょぬれになって大泣きした河藤さんを、抱きかかえて家の中に入れたという。
23年に手帳を申請。学校も地域活動も一緒だった同級生も同時期に申請し、認定されたと聞いた。期待して届いた通知を開くと「却下」の文字が飛び込んできた。「一瞬自分の目を疑った。なぜ、と絶句した」
却下について、市から納得できる説明はない。「ちょっとの場所の違いで、ばかにされている。もう年で、時間がない。どうにか救済できないのか」。河藤さんはつぶやいた。
【時事通信社】
〔写真説明〕「黒い雨」が降った時の状況を説明する大畑忍さん=6月23日、広島県廿日市市
〔写真説明〕「黒い雨」の認定が分かれる地域について説明する河藤雅敏さん=6月18日、広島市安佐北区
2025年08月03日 07時14分