太平洋戦争当時、日本の委任統治領だったマリアナ諸島のテニアン島。米軍との組織的戦闘は81年前の8月3日に終わり、犠牲者の多さから「玉砕の島」とも呼ばれる。元島民の新垣光子さん(91)は一家6人での自決を決めたが寸前に翻意した。原爆を搭載した可能性がある爆撃機を目撃した新垣さんは、平和の尊さを訴え続ける。
沖縄県中城村の新垣さんは1934年、同島に生まれた。祖父は大規模なサトウキビ農場を経営しており、祖父母、両親、弟の6人で「何不自由ない生活」を送った。
ただ44年に米軍の空襲が始まり生活は一変。島南部のマルポ国民学校4年生だった6月、一家は自宅近くの防空壕(ごう)に入った。7月24日に米軍が島北部に上陸すると、山中の自然壕に避難した。
約100人が身を潜める壕に滞在中、米国のスパイを疑われた日本人男性が日本兵に銃殺される場面を目撃した。「光景は今も頭に残る。米国からの攻撃よりも怖かった」と声を震わせる。
激化する艦砲射撃。ある日、壕の外で遊んでいると、わずか数十センチ前に射撃に伴う破片が落ちてきた。破片からの熱に恐怖を感じ、壕に戻った。
攻撃が激しさを増し、一家は壕を出た。道のあちこちでは、遺体にハエがたかる光景が見られた。「死んでハエにたかられるより、海に行って身を投げよう」。祖母の提案で、一家は崖に向かった。
ただ新垣さんが崖下の海に浮かぶ多くの死体を見て怖くなり、「死にたくない」と言って山に逃げた。結果として一家全員が生き永らえた。祖母からは後に「みっちゃんのおかげで助かった、ありがとうね」と感謝された。
米軍の捕虜になった一家は同年10月ごろ、中部のチューロ収容所に入った。収容所には妻と息子4人の一家6人で海に身投げしたが、泳ぎが得意で一人生き残った漁師の男性がいた。「敵が家族を死なせたのではない。自分が家族を殺した」。泣きながら話す男性の姿は今も脳裏に焼き付く。
島北部の飛行場からは45年8月、米軍のB29爆撃機が広島と長崎に飛び立ち、原爆を投下した。「B29の出撃は収容所から目撃したが、当時は戦争へ行っているだけと思った」と振り返る。
その後、目撃したB29が実際に原爆を搭載していた可能性があることが分かった。新垣さんは今、「B29がなければ広島と長崎は無事だったのかも」と深い悲しみを感じる。
テニアン島での戦闘から80年余り。「人間は何のために戦争をするのか。あの戦い以来考えているが、答えは今も分からない」と嘆く新垣さん。ロシアによるウクライナ侵攻など戦争は今も続く。「国は違うが同じ人間。戦争は早くやめてもらいたい」と切に願う。
【時事通信社】
〔写真説明〕テニアン島での生活や米軍上陸後の状況について話す新垣光子さん=7月12日、沖縄県中城村
〔写真説明〕マルポ国民学校3年生だった頃の新垣光子さん(前列右端)=1943年、テニアン島(新垣さん提供)
2025年08月03日 07時12分